齋藤鶴吉さんプロフィール
チェロ奏者。1933年東京生まれ。76歳(2009年7月現在)
1957年東京藝術大学音楽学部器楽科チェロ専攻卒業。1958年NHK交響楽団入団。1978年「横浜室内楽協会」設立、齋藤鶴吉(代表・Cello)、植村泰一(Flute)、齋藤龍(音楽史、Piano)の3名で横浜室内楽協会シリーズをスタートさせ、横浜市内の主要会場で2001年までに33回のコンサートを開き、横浜美術館における「東西の風」シリーズも好評を得ている。CD「東西の風」をリリース。
1981年より2000年まで横浜市磯子区主催「磯子コンサート」の企画と演奏を20回行う。1985年NHK
FM放送開局15周年記念として始められ、全てFM放送された「NHK横浜室内楽」の企画と演奏を91年まで行い、NHKより感謝状を授与された。また、横浜市を中心に室内楽の演奏を通じて地域の音楽文化振興に尽力したことに対し、1988年「安藤為次記念奨励賞」及び、1991年「第40回横浜文化賞」を横浜室内楽協会として受賞。1989年NHK交響楽団定年退職。
1993年より横浜音楽文化協会会長(初代会長山田一雄。横浜市内在住在勤の音楽専門家の団体)。「よこはま・マリンコンサート」や「ヨコハマ・ワーグナー祭」、シンポジウムを主催し地域文化の創造に貢献。
1999年横浜みなとみらいホールにてチェロリサイタル「典雅なるバロックの調べ」を開催、全曲目を同タイトルのCDでリリース。
2004年横浜みなとみらいホールにてチェロ&ハープ愛奏曲集「ララバイ」CDリリース記念リサイタル。
NHK交響楽団団友。横浜音楽文化協会会長。磯子区在住 |
※本インタビューには、磯子区役所地域振興課の糀谷係長に同席して頂きました。
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--- 現在は磯子区にお住まいとのことですが、もともとのご出身はどちらですか。
齋藤:東京の下町です。昔の深川区。今は江東区ですね。下町っ子でございます(笑)。
--- 磯子にはいつからお住まいですか。
齋藤:1959年(昭和34)です。結婚して家内(齋藤龍さん=横浜市芸術文化振興財団顧問)の家がある磯子に住むことになったんです。家内はもともと横浜生まれで、戦中から家が今の場所にあったから。
--- 長くお住まいになって、磯子にはどういうイメージをお持ちでしょうか。
齋藤:昔はね、桜木町から市電に乗って、トボトボと来て、「ずいぶん外れまで来たなぁ」っていう感じでしたよ。でも、海辺でね、とっても風光明媚な土地柄でしたね。その頃は磯子の私の家の近くに、磯子園とか偕楽園がありましたね。
--- 料亭ですか。
齋藤:そうですね。料亭の他に小さな待合(まちあい)のようなものとか検番(けんばん)もありました。
--- けんばん・・・ですか?
齋藤:検番知らないの? あ、ほんとに。あのね、芸者さんの窓口をするところです。今風に言えば芸者さんの事務所ですよ。(ここでカバンから電子辞書を取り出す齋藤さん。ササッと「検番」を調べて意味を見せてくださいました。)
--- 埋め立て前の時代は、ご自宅のすぐそばが海だったんですね。
齋藤:そうですね。ですから、海苔ひびが立っててね。海苔を養殖する業者がいたんですよ。それから貸ボート屋さんがあったり。
--- その頃と今の磯子ではかなり様子が違いますか。
齋藤:そうですね、全く変わったと言っていいでしょう。だいたい市電しか無かったんですから。8番、13番ていう市電が通ってましたね。
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--- それでは、地域での音楽活動についてお話をお聞かせください。横浜室内楽協会をお作りになられたのはいつ頃でしょうか。
齋藤:昭和53年(1978)ですね。
--- それが齋藤さんにとっての、地域での音楽活動の始まりだったんでしょうか。
齋藤:そうです。
--- 地域での音楽活動を始められた理由は?
齋藤:その頃はね、横浜市内でコンサートが開かれることはあっても、出演するアーティストは皆、ヨソから来ていたんです。たとえば私たちも東京の事務所から頼まれて横浜に来るわけです。だけど横浜に住んでいる一流の音楽家はたくさんいるんです。だから、住んでる人間が地域のために貢献しようと。
当時NHK交響楽団に在団していた植村泰一(うえむら・やすかず=フルート奏者)、彼は西区なんでね。私はN響へクルマで通ってて、帰りは彼を乗せて帰って来てたんですよ。そんなときに「横浜でコンサートをやったらいいんじゃないか」っていう話を二人で散々していて。それと家内も地元の人間ですから、地元への思いも我々よりずっと強くてね。それで3人で始めたんです。
--- 当時、地方ではそういう活動は盛んだったんでしょうか。
齋藤:アマチュアの活動は多かったんですよ、横浜も含めて。たとえば横浜交響楽団とか、昔から活動している団体もあります。そういったアマチュアの方たちが地方文化をリードしていたんですね。
だけどプロが地域のために働くのはなかなか難しいです。プロは、一番中心(東京)に行って、そこでキャリアを積む必要がありますからね。
--- 外国でもそういう傾向はありますか。
齋藤:外国は、自分の国の伝統芸能だからね。クラシックは日本の伝統じゃなくて、ヨーロッパの伝統芸能ですから。だから、それぞれの地域にそれぞれ優秀な人間がいて、やってたわけです。そういうところのものを我々がちょっと借りてやってるから非常に厳しいものがありますよね。逆の視点から見たら、歌舞伎をヨーロッパで勉強するようなもんです。手探りだからね。
--- 当時、横浜にはクラシックの演奏家の方はたくさんいらっしゃったんですか。
齋藤:たくさんいましたよ。磯子区にはピアニストの辛島輝治(からしま・てるじ)、旭区には声楽家の朝倉蒼生(あさくら・たみ)、それからずっと若いところでは神奈川区にはバイオリニストの水野佐知香(みずの・さちか)。みんなヨソから来た人たちですよ。横浜に縁があって来た方。まだまだ、名前を挙げきれないぐらいたくさんいますよ。
邦楽では尺八で有名な三橋貴風(みつはし・きふう)。二十弦の箏(そう)を演奏する吉村七重(よしむら・ななえ)とも一緒にやって。このお二人は現代音楽のエキスパートで、吉村七重さんは出光音楽賞も受賞されている方です。
--- クラシックにこだわらず、なんですね。
齋藤:できるだけ優れた方たちと一緒にやりたい。それぞれがわが国のトップアーティストですから。
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--- 1982年(昭和57)からは磯子公会堂で「磯子コンサート」が始まりました。
齋藤:磯子コンサートはなんで始まったのかっていうと、区役所からアイディアが出たんだと思うね。たしか、その頃の係長だった方がお二人で、地元出身の家内のところへ相談に来たんですよ。家内はその頃、磯子区の文化振興懇話会の委員だったんですね。そういう縁で家内のところに相談に来て、それでたまたま亭主がN響の楽員だから、「N響の人間を連れてこられないか」と。それ以来、私が窓口になってずっとやってたわけですよ。
--- 約20年ぐらい毎年されてたんですよね。
齋藤:そうですね。初年度だけは2回やりましたけど。今はN響でコンサート・マスターをやってる堀正文(ほり・まさぶみ)がN響に入ったばかりの頃ですね。あれから30年・・・なんか聞いたようなセリフだね(笑)。
今回の磯子コンサートにも出演した山口裕之君は、当時はまだコンサート・マスターじゃなかったんだけど、ビオラも菅沼準二、コントラバスは西田直文(にしだ・なおふみ)、そういった錚々(そうそう)たる人たちを集めて、N響の本当に主流のメンバーによる磯子コンサートが始まりました。
--- 磯子コンサートでは、何か失敗したりとかいうことはありましたか。
齋藤:失敗は無いですね。失敗は無いけれども、苦い経験はありますよ。古い(建替え前の)磯子公会堂のときはね。
--- 磯子コンサートが始まった当時は、今とは違う公会堂だったんですね。
齋藤:そうです、そうです。同じ場所にあったけど。昔はホールが2階にあったんですよね。そうするとチェンバロなんかを運び込むときは階段をあがらなきゃいけない。それで大変でしたね。雨の日なんかは屋根の無い階段だったから非常に苦労しました。
--- 階段は外にあったんですね。
齋藤:中にももちろん階段はあったんだけど、大きな楽器は外の階段じゃないと運べなかったんですよ。
それから、その頃は「スリッパに履き替えてステージにあがってくれ」とかね。そういう時代でしたよ。つまりステージが所作台代わりだったんですね。邦楽や踊り(日本舞踊)の方は足袋を履いて舞台に上がる。だからステージは土足厳禁だったんです。懐かしい思い出だよね。
--- では最初はスリッパで演奏されてたんですか?
齋藤:いやいや(笑)、踵が高い靴を履くのもクラシックを演奏する要件のひとつなのでね、そういうお話をして最終的には靴を履いて演奏しました。
今の公会堂には所作台は別にしつらえてあって、踊りの時に敷き詰めるようになってますけどね。
それと、以前の公会堂はコンサート仕様じゃなかったから音響の問題もありました。反響板なんていうものは無くて、垂れ幕がただ下がってるだけ。音を吸っちゃって、音楽やるには具合が悪いんです。そのうちに「反響板があるといいね」という話になって、仮設の反響板をステージの後ろに並べてやるようになりました。それに昔の公会堂には譜面台も常備されてなかったので、必要な分量を買いましたね。20年間使って、もう減価償却しちゃったんだけど、今でも私の家にありますよ、錆付いた古い譜面台が。
--- その当時、クラシックのコンサートは磯子公会堂ではほとんど無かったんですか?
齋藤:地方でやる、地域の公会堂でやるのは、全然無かったわけじゃないけど、磯子コンサートのように定期的に、計画的にやるようなものは非常に珍しかった。無いとは言わないけど、あったとは思うけど、非常に珍しかったです。
磯子コンサートは、最初は区から委託を受けて横浜室内楽協会の活動としてやっていたんです。だから、税務処理とかね、税務署の手続きの仕方を覚えました。一方で、コンサートの進行表の雛形はかつての区の職員さんが作ってくれたんです。こちらの知恵も出したけれども、区の知恵も頂いて。おかげで私は、そういう点で育てて頂いたですな。事務的なことまで。
--- 新しい公会堂には可動式の反響板がありますね。
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これが磯子公会堂ホールの、左右と天井が反響板に囲まれた、コンサート仕様のステージ。 |
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齋藤:新しく建て替えるときに、構造について家内と私でいろいろアドバイスさせて頂きました。それで、ああいう風に天井から天板が降りてきて、ステージがすっぽり包み込まれるような形が採用されたんです。
演劇用だとステージの上は吹き抜けでしょ。そういう風にすることもできるし、クラシックのためにコンサート仕様にもできる、本当の意味の多機能ホールなんです。
多機能ホールは磯子区には2つあるんですよ。磯子公会堂と、やはり私がアドバイスさせて頂いた杉田劇場。杉田劇場も同じような構造になってるわけです。地域の施設で、こういう可動式の反響板があるホールはとても珍しいんですが、磯子区にはそれが2つもあるんですよ。
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--- 私はクラシックに明るくないんですが、そんな私でも先日の磯子コンサートは知っている曲ばかりでした。
齋藤:いい曲はゴマンとあるけれども、演奏家がやりたいっていう曲もあるけれども、やっぱりお客さまが聞きたいと思ってる曲を最優先してます。
--- 以前行われていた、定期的な磯子コンサートでも、やはりそういう選曲を心がけてらっしゃったのでしょうか。
齋藤:そうそうそう。そういうスタンスでやっておりました。楽譜はね、最初のうちはN響から借りたこともあったけれども、できることなら自分たちでやろうっていうんで、以降はほとんど自費で調達したんですよ。だからいま我が家の書庫にはほとんどのレパートリーが眠ってます。今回もすべて自前の楽譜でした。
--- 地域でコンサートをやる意義はどんなところでしょう。
齋藤:日本中どこでも、住んでる方の何パーセントかはクラシック・ファンがいますけれど、それまでファンじゃなかった方でも1回聞いただけでファンになる人もいるわけです。実はそこが重要なんですね。ファンでない方が足を運んで好きになって頂くというのが、実は啓蒙活動としては非常に重要なものになる。
たとえばワケ知りの人ばっかり集めてね、難解な曲や珍しい曲も聴きたいとうマニアックなものは、それは東京でN響がやってますから。
それより、未体験の方にファンになってもらいたい。そういう体験は至るところでしています。たとえばNHK横浜放送局でNHK横浜室内楽っていう催しを磯子コンサートとほとんど同時期に始めたんです。その担当のNHKの職員が全くクラシックのことを知らない人だった。ところが彼は「今度やる曲はどんな曲かな」ってCDを聴いてるうちに、クラシックのことを好きになった上に、演奏や曲について的確な論評をするようになったんです。
その方はもともと資質のある人だったんだけど、食わず嫌いだった。クラシックに接するチャンスが無かった。そういう人はたくさんいると思うんですよね。そういう人たちに、お客さんになって頂くのが、私たちの本来の一番の目的なんです。
それには非常に内容の良い演奏を提供しなきゃならないんです。選りすぐりのメンバーで、これ以上ないという緊張感がある演奏会を提供することによってファンが増えるんです。最高のものを提供し続けることで、影響力が生まれる。
ただ、最高のものをやるとお金がかかるワケですよ。地域でやる難しさはそこですね。資金が潤沢ならね、お金をいくらでもかけられるんだったら、最高の人を誰でも呼べるわけです。
--- いい解決方法はありますか?
齋藤:一番良いのはお金のかかる事務的なことは自分でやっちゃうんですな。今回の磯子コンサートでもできることは自分でやっちゃって、お金を頂いたのはステージの上で演奏した分だけ。企画から、プログラムに載せる解説原稿、当日の進行のシナリオまで、それは全部私が作りました。これは予算には計上してあったけど、頂かなかったです。
--- そうすると、「地域に広める」っていう強い目的意識を持った方がやらないと・・・
齋藤:そうですね。そうしないと、手弁当の部分が解決しないと思いますね。結構面倒だからね。
--- 磯子公会堂で磯子コンサートだとか木曜コンサートだとか、そういうコンサートが無くなってしまったのは非常に残念なんですが。
齋藤:やっぱりお金の問題が大きいですよね。私はN響にいたのでN響のメンバーをたやすく集められるけど、全く関係のない方がN響のメンバーを集めようとすると、もうワンクッション要るわけですよ。音楽マネージャーが。そうするとその方はそれでご飯食べてるから、演奏者に支払う上にマネージャーの方への経費もかかるわけですね。だからますます高くなっちゃう。
糀谷:最近では区が区民の方と計画し、N響メンバーを呼ぶようなコンサートというのはほとんど無かったですし、職員もいまは異動が早いですから、ノウハウが残っていなくて。当時の磯子コンサートの資料を齋藤先生からお借りしたり、今回のコンサートの主催者である磯子事業会の山崎会長にいろいろご苦労頂いて、今回のコンサートが成功したということですね。
齋藤:いいコンビネーションが生まれたわけです。山崎会長と私は磯子ロータリークラブの会員なんですね。ロータリークラブの精神で、こういう奉仕をすることについては積極的ですから、一生懸命やります。今回は個人の奉仕なのでね、クラブとしては何もタッチしていませんけれども。
糀谷:これがもし齋藤先生や山崎会長がいらっしゃらなければ、先ほど齋藤先生が言われたように、専門のマネージメント会社に依頼して立ち上げてもらうしかないですから、そうすると予算の問題もありますし、このコンサートができていたかどうか、ちょっとわからないところではありますね。
齋藤:ただこういう形態のものが増えると逆に音楽事業者を圧迫するわけですね。だからね、これはあんまり推奨できないんです。「餅は餅屋」でそれぞれ専門があるわけだから。
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