日本最初の石けんは磯子発
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2007年2月16日取材 |
京急線・杉田駅の駅ビル「プララ」4階にある杉田地区センターで、今月、全4回シリーズの郷土史講座「横浜の開港と磯子」が開かれています。
そのシリーズ3回目、横浜開港記念館の西川武臣さんを講師に迎えての『横浜の発展と磯子』を、2月16日(金)に取材してまいりました。 |
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いきいきとしたエピソード満載
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よく通る声で歯切れ良く話す西川さん。内容の方もたいへん面白く、どんどん引き込まれてしまいます。江戸末期から明治のひとびとの生活や、横浜・磯子の様子が浮き彫りになるエピソードが満載で、約2時間の講義があっという間に終わってしまいました。そのごくごく一部ですが、紹介させて頂きます。
<磯子は物資流通の拠点だった>
江戸時代の末期、磯子(当時の久良岐郡)は物資流通の拠点として、かなり栄えていました。五十石以上の和船が40艘ちかくもあり、上大岡や戸塚、港南周辺でとれた薪などの物資を、磯子の海から江戸まで、船で運んでいたそうです。
また、今の金沢区のあたりが当時は有名な観光地だったので、米やら餅やらいろいろな食べ物の消費量が多く、それらは産地から磯子を経由して輸送されていたのだとか。
1860年(万延元年)、日野から町屋(金沢区の称名寺近辺)に運ばれた赤餅・白ウルチなどの「送り状」も講義中に紹介されました。「送り状」は今でも仕事で普通に使う書類ですが、そんな昔から同じ名前なんですね。
<日本最初の石けんは、磯子の堤さんが作った>
磯子の歴史に詳しい方にはおなじみかもしれませんが、日本で初めて石けんを商品化したのは、磯子の堤磯右衛門さん。日本国内はもとより、インドや中国にも輸出されたほどの優れた製品でした。花王(株)の博物館の展示は、堤石けんから始まっているとのことで、堤さんの作った石けんの重要性がわかります。
<六浦から関内・元町までは泊まりがけの旅が普通>
講座の最後に紹介された布川日記のエピソードがまた、おもしろい。六浦に住んでいた布川さんという人の、明治21年1月の日記なのですが、六浦の自宅から、関内・元町まで洋服と靴を買いに行った様子が記されていて、なんと、泊まりがけの徒歩の旅なのです。朝9時に家を出て、親戚の家に寄った後、杉田・森・磯子・滝頭を経由して堀割川沿いを歩き、関内に着いたのが午後2:30だったと1日目の日記に書いてありました。
明治時代、六浦と関内の間には、まだそれくらいの隔たり・距離感があったんですね。ちなみに先ほど、乗り換え案内で調べてみたところ、京急の六浦駅からJR関内駅まではたったの37分でした。 |
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白板の文字。一番左は「いりゅうち」ではなく、「きょりゅうち」です。 |
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さて、横浜開港資料館にお勤めの西川さん、普段のお仕事では、各地の旧家に協力して頂き、倉庫などに眠っている文書(もんじょ)を探し出したりもしているそうです。もちろん、文書を見つけるだけではなく、ガスで燻蒸(くんじょう)し、書かれた内容を解読・分析し、その後もきちんとした状態で保管する、そういうことをするんだそうです。持ち主の方の信頼を得て蔵の中を見せて頂くまでに、数年かかることはザラだとか。そんなご苦労の後で、貴重な文書が見つかったときの喜びは、この上ないものだそうです。
◆参考リンク
横浜開港資料館 公式サイト
西川武臣さんの著書(amazonで検索)
※西川さんは、横浜や神奈川に関する本を多数く書かれています。ぜひご一読を! |
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来年度の講座も楽しみです
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ところで、今回の講座は杉田地区センターの自主事業。つまり、地区センターが自ら主催するイベントです。
竹内館長にお話しを伺ったところ、以前に開催した梅博士・小玉さんの郷土史講座の人気が高く、それが今回の郷土史講座シリーズを行うキッカケになったそうです。来年度(07年4月〜)には、また新たな郷土史講座も考えているとのことで、ぜひまた磯子マガジンも取材させて頂きたいと思っています。 |
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