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平安時代末期 〜> 鎌倉時代 〜> 戦国時代の半ばまで、磯子を治めていたのは豪族・平子(たいらこ)氏。 |
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平子氏は、三浦氏の分家だという説が有力。三浦氏は三浦半島の名前の由来となった豪族。 |
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平子氏は、現・磯子小学校のあたりに本拠地(館=やかた)を置き、今の行政区域でいうと磯子区のほか南区・中区あたりも領有した。 |
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平子氏の中では、鎌倉時代の平子有長(ありなが)という人が有名。忠臣蔵とならんで“日本三大仇討ち”のひとつに数えられている「曽我物語」に登場する。 |
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「曽我物語」は、主人公の曾我十郎・五郎兄弟が仇討ちをするする実話にもとづく。兄弟は、親の仇である工藤祐経(すけつね)を討った後、源頼朝をも襲う。そのときに最初に応戦したのが、平子有長。 >>関連ページ:Wikipediaより |
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曾我十郎の名は、のちに小田原名産の梅・十郎梅(じゅうろう うめ)の名前に使われる(1960年=昭和35年命名)。 >>小田原市地場産業後進協議会 |
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ということはつまり、「十郎梅の由来となった曾我十郎」と、「後に杉田梅を産み出す地・磯子の平子有長」が刀を交わしていたことになります。 |
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平子有長には石川経長(つねなが)という弟がいた。それが、現在の石川町という町名の由来。 >>関連ページ:石川商店街 |
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平子有長と同じ時代、同じ平子一族に平子重経(しげつね)という人がいた。この人が源頼朝のもと、戦(いくさ)で活躍し、周防(現・山口県)の地頭に補任(任命)され、移住した。 >>関連ページ:山口県の文化財 |
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平子重経の子孫が、今回の講師・吉富さん。山口県に生まれ、後に仕事の関係で磯子に転居。 |