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鎌倉時代、磯子を治めた豪族・平子氏のはなし

2013年11月3日取材
吉富和彦さん(久良岐かたりべの会)久良岐かたりべの会の公開講座「映像で楽しむ磯子の今昔」が、磯子センターで開催されました。

講師を務めたのは、磯子区と同い年の吉富和彦さん(磯子区も吉富さんも1927年=昭和2年に誕生、86歳)。久良岐かたりべの会の代表です。

今回の講座のテーマは次の3つ。
「1 平子氏で結ばれた磯子と山口県」
「2 磯子に住んで48年」
「3 日本の医療と私の健康法」

磯子マガジンは時間の都合で、最初の1と2しか聞くことができませんでしたが、特に1のお話は、とても面白かったです。吉富さんは山口県の出身ですが、ご本人も知らなかったことに、父系・母系とも偶然にも磯子にルーツがあったんだそうです。「知らずに祖先の地に帰ってきた」と。そんな話から、磯子の歴史、それがどうして山口につながるのか、という興味深い物語が語られました。
吉富和彦さん(久良岐かたりべの会)
この日の来場者は約60人。そのうち、かたりべの会の会員は10人あまりで、それ以外は一般参加というのですから、人気の高い講座です。
映像で楽しむ磯子の今昔 映像で楽しむ磯子の今昔
貴重な資料や写真がスクリーンに映し出されます。左は平子氏の系図。右は平子氏シンポジウムの様子。
ひとつ残念なのは、吉富さんが自身で講師をつとめるのはこれで最後にする意向だということ。後進に道を譲るためだそうなので、今後を任された同会メンバーの方々の活躍を期待しております。

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それでは最後に、吉富さんの講演でのお話をもとに、磯子マガジンがネットで調べた情報を織り交ぜつつ、「磯子を治めた豪族・平子氏」について、ざっくりまとめさせて頂きます!

平安時代末期 〜> 鎌倉時代 〜> 戦国時代の半ばまで、磯子を治めていたのは豪族・平子(たいらこ)氏
平子氏は、三浦氏の分家だという説が有力。三浦氏は三浦半島の名前の由来となった豪族。
平子氏は、現・磯子小学校のあたりに本拠地(館=やかた)を置き、今の行政区域でいうと磯子区のほか南区・中区あたりも領有した。
平子氏の中では、鎌倉時代の平子有長(ありなが)という人が有名。忠臣蔵とならんで“日本三大仇討ち”のひとつに数えられている「曽我物語」に登場する。
「曽我物語」は、主人公の曾我十郎・五郎兄弟が仇討ちをするする実話にもとづく。兄弟は、親の仇である工藤祐経(すけつね)を討った後、源頼朝をも襲う。そのときに最初に応戦したのが、平子有長。 >>関連ページ:Wikipediaより
曾我十郎の名は、のちに小田原名産の梅・十郎梅(じゅうろう うめ)の名前に使われる(1960年=昭和35年命名)。 >>小田原市地場産業後進協議会
ということはつまり、「十郎梅の由来となった曾我十郎」と、「後に杉田梅を産み出す地・磯子の平子有長」が刀を交わしていたことになります。
平子有長には石川経長(つねなが)という弟がいた。それが、現在の石川町という町名の由来。 >>関連ページ:石川商店街
平子有長と同じ時代、同じ平子一族に平子重経(しげつね)という人がいた。この人が源頼朝のもと、戦(いくさ)で活躍し、周防(現・山口県)の地頭に補任(任命)され、移住した。 >>関連ページ:山口県の文化財
平子重経の子孫が、今回の講師・吉富さん。山口県に生まれ、後に仕事の関係で磯子に転居。
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