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磯子区の町内会の代表、宮嶋会長にインタビュー
2005年10月取材
磯子区にある200近い町内会。その町内会は地域ごとに例えば洋光台の連合町内会、磯子の連合町内会というように、「地区連合町内会」という組織でまとまっています。そして、磯子区の連合町内会の会長さん(通称「地区連長」)9人が集まるのが磯子区・連合町内・会長会で、通称「区連会」と言います。

その「区連会」の会長を、平成11年からつとめておられるのが洋光台在住の宮嶋修会長(77)。正式には磯子区連合町内会長会の会長です。それだけでなく、警察協議会の会長、防犯協会の会長などさまざまな要職もつとめらておられます。

南区の弘明寺駅そばに事務所を構え、設備工事業を営む大和工業の社長さんとして、お仕事でも精力的に動き続ける宮嶋会長に、お忙しい中、お話を伺いました。

Part1 区連の副会長に指名されて「拒否権ありませんか?」
Part2 磯子区に必要なのは若い人材
Part3 会社を辞めようとしたら娘たちに説教をくらった
Part4 洋光台もおとなしいばっかりじゃダメ
区連の副会長に指名されて「拒否権ありませんか?」
宮嶋会長1
宮嶋 修(みやじま・おさむ)さん
生年:昭和3年(1928年) 辰年
出身:秋田県
磯子区歴:昭和49年、横浜での仕事が増えてきたので、品川区五反田より洋光台に転居。
おすすめスポット:円海山。横浜港や東京湾が一望できる。
---洋光台に越してこられたきっかけは?
洋光台に引っ越して来たのは昭和49年(1974年)なんですが、その14、5年前から事業を南区でやってましてね。東京の五反田から南区にある自分の会社へ通ってたんです。それで横浜が仕事の本拠地になってきたのと、おふくろもいいかげん歳になってきたから、じゃあ横浜へ越そうかということになってね。
洋光台に住むことにしたのは、わたしの会社は水道関係で、洋光台の造成にも関わりがありましたから、どういう場所だか事前に見ていたんですね。それでいいところだなと思いまして。

---地域活動との関わりは?
最初は磯子区という地域への関わりっていうのはそう感じてなかったんですよ。それよりは仕事のほうで、横浜市の業界の組合がありまして、その理事をやってました。何年やったかな・・・、うん、28年くらいやったんですよ。副理事長になって、次は理事長っていうところでいい加減後輩に道を譲らなきゃいかんだろうっていうことで、副理事長で辞めましてね。それからなんですよ、磯子区の町内会の役職をやるようになったのは。

---最初は洋光台の町内会ですね。
そう。洋光台っていうのは新しい街でしょ。でも古い人たちも住んでるんですよね。その調和がたいへんうまくとれている街だなっていうことを住んでいて感じましてね。それで自治会があるって聞いたんで、その会長さんのところへ行って「自治会に加入させてくださいよ」って言ったら「どうぞどうぞ」って。
それで自治会の班長さんやってたらね、あるときその皆さんからどうしても会長をやってくれって言われたんですよ。だけど私はね、まだ仕事のほうが現役バリバリでしたからね、ある別の方に「ぜひ会長に就任してください」って私がお願いしたんです。そしたら、「宮嶋さんがサポートしてくれるんなら引き受けるよ」っていうことだったんですよ。それでわたしがサポート役でその方に会長をやってもらったんです。
それから2年たったときに「私のことを一生懸命サポートしてくれた宮嶋さんを次の会長に推薦します」って言われまして。それが今から約20年前ですから昭和61年かな。そういったことで洋光台五丁目自治会の会長になりました。

---町内会っていうのは単独でバラバラに活動しているわけではないですよね。
洋光台には洋光台連合っていう連合町内会がありますからね、その一員になったんです。
そのあと、今から約10年くらい前に洋光台連合の会長(連長)さんが突然やめられたんですね。次の連長には誰も名乗りをあげない。いろんな方に話があって、最終的に私のところに話が来て。皆さんに「万難を排して協力するから」「洋光台連合に連長がいないっていう事態は何とか避けたい」って言われまして。それでイヤイヤながら連長を引き受けたっていうような状態なんですよ。ただ、わたしも「引き受けたからにはやらなきゃ」っていう性格が強いもんですから、一生懸命やりました。

---磯子区の区連会ではまず副会長になられたとのことで。
私が洋光台連合の連長になって2年か3年たったころですよ。区連会の副会長が辞められることになって。当時の早野会長(故人)が、区連会の席上で突然「こんど僕の代理(副会長)は、洋光台連合の宮嶋会長にお願いします」って皆さんの前でおっしゃったんですよ。何の前触れもなくですよ。それでビックリして私は手を挙げてね、「これ拒否権ありませんか」って言ったんです(笑)。そうしましたらね、「いやー宮嶋君、拒否権なんて言うなよ。おれが頼んでるんじゃないか」って早野会長に言われまして。そのコトバに私はホロリとしちゃいましてね。
早野会長と言えば、区連会の会長職を35年もつとめられて、しかも相当な実績を残した方で。(横浜市の)市連の会長までやられましたからね。そういう大御所のお言葉ですから、私にとってはまさに天の声というかツルの一声というか。それでその場でお引き受けすることにしました。

---普通、そういうときは事前に打診とかありそうですけど。
だからその会が終わった後で、当時の区長にうんとクレームをつけて(笑)。「事前に知ってたんだろう、何で言ってくれなかったんだ」って抗議したんです。そしたら区長が「確かに事前に聞いていた。宮嶋会長なら大丈夫だと私が念を押した」ってこう言うんですよ(笑)。「でも事前に話ししたら断るだろうからって早野会長に止められてた。早野会長が区連会でイキナリ発表するから」って。
そんなことがあって副会長になって、その1年後くらいに早野会長から会長職をバトンタッチされて今に至っています。
磯子区に必要なのは若い人材
宮嶋会長2---磯子区についてどう思われますか?
横浜市の海の無い区も多いわけですけど、磯子区は海もあり山もありでしょ。非常に温暖な地域というか、かなり変化に富んでいるという印象を持っています。それと、新旧住民が入り混じっているけれども、おだやかに暮らしている。非常にありがたい地域を受け持たせてもらったなと思ってますよ。

---課題はありますか?
あえて挙げるなら、古いものを新しく変えていかなきゃならないところがかなりあるんですよ。古いものはいいところもあるけれども、それを守っているだけでは街の発展にはつながらない。古いものを残しながらも新しい形に変えていくというね。
ひとつの例を言いますと、今年で29回目を迎える磯子まつり。横浜市の中でもかなり歴史のある大きなイベントなんですよ。だけど、これも来年の第30回からは、もう少し検討して新しいまつりにしなきゃいけないんじゃないかと。あり方についても考えなきゃいけないと思ってます。

---お店の取材ではよく、磯子区にはもっと活気が欲しいって言われます。
そうですね。で、そういう活力の源は若い人材なんですよ。やっぱり引っ張ってく力っていうのは若さがなくちゃいけない。若さには「これから」を考えられる行動力があるわけですね。
区長ともよく話しますけどね。今の区長はお若いですけれども、その若さ、行動力にすごく敬意を表しているし、評価もしてるんです。ただ、そういう若さや行動力に対して、どうしても反対意見も出てくると思います。それをどう克服するか、われわれ住民としても見守っていくと同時に、力を与えていかなきゃいけない立場にあると思っています。
会社を辞めようとしたら娘たちに説教をくらった
---ここで少しプライベートについても教えてください。お生まれは?
昭和3年の8月です。辰年ね。今年77歳の喜寿(笑)。子どもたちに喜寿のお祝いをしてもらいました。
辰年は「昇り竜」っていうくらいで、辰年うまれの人間はいいときはビューッと急上昇していいんだけど、悪いときはガターッと急降下。そういう感じじゃないでしょうか。
悪くなるときはガーッときつい傾斜で降下していくんで自分でもよくわかる。すぐわかるから、その対策を講じることができる。ジワジワと落ちていって、気がついたときにはもう遅いっていうのよりはいいかもしれないね(笑)。

宮嶋会長と優木子さん
右は次女の優木子さん。こうして職場で一緒に写真におさまることは、めったに無いそうです。
---お仕事も続けてらっしゃるんですよね。
実は前から事業はもう辞めようって思うときがあったんです。65歳になったときに、世間は65歳で定年だからおれもここで辞めようかって思ったり。8年前、女房が亡くなったときには、もういよいよやめようって決断して3人の娘たちに「辞める」って言ったんですよ。そうしたらものすごい説教をくらっちゃった。
「お父さんが一代で築き上げてきた事業をやめる理由は何ですか?」って言うから、「歳だ」と答えたら「歳なんか関係ない! 私たちがサポートするから辞めるなんて言っちゃダメです!」ってね。「女の子じゃなくてお前たちが男の子だったらな」って言ったらね、「女でも大丈夫です!」って(笑)。それでタイミングをのがして、もうやめられなくなっちゃいましたね(笑)。目が黒いうちはやってなきゃいけないかなー、なんて今は思ってます。
ただこれも会社が裕福だったらとっくにやめてるんですよ。ウチの場合はまだいろいろやらなきゃいけないことがたくさんある。会社が貧乏だからいいんですよ(笑)。

---体を動かすのはお嫌いではないんですね。
若い頃は陸上やったし柔道やったし。今でも黙って体を動かさないでいるのが一番つらいんですよ。家帰ってもね、ちょっと庭木がこう伸びたなって思うと、すぐハサミ持って庭に出てってバチッって切っちゃうんです。いまだに僕はハンターで山歩きするんですよ。
次女の優木子さんに、お父様について伺いました
優木子さん---厳しいお父様ですか?
そうですね、特に昔は厳しかったですね。今はまっすぐなことさえしていれば・・・、きちんと努力をしていれば大丈夫です。

---おうちでのお顔は仕事中とはだいぶ違いますか?
違いますね。仕事のときは社長ですからね。家に帰って、私たち娘や孫たち、ひ孫たちと接するときは全然顔が違います。

---お父様は社長のお仕事もあり、区連会の会長として日曜日などにも職務があってお忙しい日々を過ごされていますね。
朝の早い時間から夜遅くまで会合とかって多いですから、疲れて家に帰って来るのがわかるときはあります。ただ、上手に発散してますからね。ポコッと時間があくと、自分で好きなように行動しますし、発散は上手ですよ。(忙しい合間を縫って)うまく休みをとっていると思います。
それと、動いたり、頭を使ったりしてお仕事をさせて頂いてるのも、すごく性に合ってるんじゃないでしょうかね。うちの中でおとなしくしてたら、それこそ病気になっちゃうと思います。だから休日はなくても大丈夫でしょうね(笑)。

---以前、会社を辞めると言ったらお嬢さんたちに怒られたとお聞きしました。
ウチは娘3人なんですよね。でも、父と母が二人で作った会社を一代でやめるのはしのびないので、わたしも子どもが大きくなったし会社を手伝うって話をしたんです。やめたほうがいいと反対されましたけど。そのときは(宮嶋会長は)もう会社をたたもうと思ってたみたいです。でも「私がやるから、やりましょう」とお尻をひっぱたきました(笑)。
洋光台もおとなしいばっかりじゃダメ
宮嶋会長3
柔道四段。陸上競技も得意で運動会では数々の賞品を獲得。カラオケの十八番は北島三郎。お嬢さんたちの指導のおかげで、相当な腕前だとか。
---最後に、いまお住まいの洋光台についてお話しを聞かせて頂きたいのですが。
洋光台のまちの出発点は根岸線が洋光台駅まで来るようになってから。開通した年に洋光台に住民がドドーッと入ってきた。それが洋光台のまちの起源になっています。
最初は都市整備公団が開発した団地を中心に、団地のまちを作るということだったんですよ。ですから集合住宅が多いんです。洋光台には17の自治会・町内会がありますけれどもそのうちの一番多いところでは、1つの自治会・町内会だけで1400近い世帯があります。

---洋光台の特徴は何でしょう。
まず洋光台のいいところはですね、新旧住民っていうかね、今はそういう色分けはしてませんけど、そういう人たちが調和が取れた生活を皆さんしてます。
ただ、今は戸建もかなり建ってることからもわかるように、裕福な方が多く住んでる街ですね。それで、庭木も豊かなおうちが増えてきて、急激に空き巣などの犯罪が多くなりました。

---それは困ります。
そこで防犯対策をいろいろと講じまして、前年比で45%ほど減らすことができました。地域の皆さんと一丸となって防犯対策をしてますから、そういうことが浸透してきてるんですね。

---近年、自治会として力を入れていることはありますか?
まちができて三十何年もたつと、近代化・活性化があらゆる面で必要になってきます。そのためにいま「まちづくり協議会」という組織を作りまして、道路関係、住環境関係、駅前の再開発の対策など6分野くらいに分けていろいろ検討しています。行政の力も借りながら、改善すべき点は改善していこうと取り組んでいます。
中でも洋光台駅前の開発が緊急の課題ですね。駅ができた当時としてはかなり大きなスペースをとっていたし、お隣の港南台駅より先にできたのに、今となっては港南台駅より発展が遅れちゃった。遅れた理由は商店が伸びないことですね。お隣の港南台は商店を中心にして伸びてってますから。今から「港南台に対抗して」っていう意識を持ってもダメですけど。特にネックは駐輪場。今は駅前スペースの約1/3を自転車や2輪車が占めていて、何かと邪魔になっています。これを解決することや、バス路線・一般車路線をスムーズに通行できるようにするための協議を続けていてます。

---ほかにはどんな課題があるでしょうか。
住宅地の、最初は小さかった植木も30年分成長しました。そうすると死角・暗闇ができて犯罪を誘発してしまう。そんな環境が各所で生まれてしまっています。大きな木が犯罪を誘発してるっていうことはちょっと気付きにくい。だから住民の意識改革が必要ですね。
それとまちの美化の問題。電車の乗降客の中には不心得者がいましてね、車内で食べてきたものは自分の家まで持ち帰ればいいのに、駅を出たらすぐにポーンと植木のところに捨てていく。見えにくくなっているのをいいことにね。そういうものへの対策だとか、安心歩行エリア対策など、まだまだいっぱい良くしていかなければならないことはあります。

---洋光台に限らず、磯子区は住民の高年齢化が顕著だとか。
子どもたちは少なくなってきてますね。それと洋光台は自治会・町内会などの集まりに若い人が少ない。どこの地域でも、ある程度はそういう傾向があるでしょうけれども、洋光台はダントツに若い人が少ないですね。特に男の若い人。30代、40代ね。そういう世代の男性で地域活動に参加する方が少ない。一番私たちが求めている「次の世代」の方たちがいないんですよ。他の地区と比較しての横浜市全体の傾向でもあるらしいんですが、そういう悩みはひとつありますね。

---洋光台は店が閉まるのが早いという声を聞くことがあります。
「勤めから帰ってきて、寝る」それだけの街でいいのか。勤めを終えて帰ってきても夜の9時になったら洋光台はほとんどの店が閉まってるから、寄るところがありません。私なんかが若い頃は、帰りに一杯やって息抜きをすることが明日の活力になってたんですよ。そういうのが洋光台はしづらいわけです。深夜遅くまでお店がいつまでも営業していてまちの雰囲気が悪くなるのはもちろん良くないけれど、今はあまりにも寂しすぎる。今の時代に9時で閉まるのはちょっと早すぎると思っています。
それと、まちを活性化するためには、住んでる住民たちがもう少し元気を出せるような内容が含まれていないとダメだなーと思いますね。おとなしいばっかりじゃダメ。商店に活気が無いと、まち全体に活気がなかなか出てきませんね。

---最後になりましたが、区民の方たちにメッセージをお願いいたします。
磯子区っていうのは、他の区に比較したら安定したおだやかな区じゃないでしょうかね。それとさっきも言いましたように、古くからの住民と新しい住民とがうまく調和をとっている地域ですね。そういう中で、古き良き伝統は残しつつ、新しくするべきところは新しく挑戦していくことが大事だと思っています。
たとえば古い町並みが残っている地域では、古いだけに道路が未整備で消防車が入れないようなところも少なくありません。このあたりの問題も行政と協力して解決していく必要があります。「堀割川の日」っていうイベントを今年から始めましたけれども、そういう活動を通じて、堀割川ももっともっときれいにして、違法係留の船舶も減らしていかなきゃいけない。
そういったことで、課題はまだまだたくさんあります。お互いの立場を理解し、協力し合って解決していきましょう。

---本日は長時間、ありがとうございました。
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