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ジャズ・ピアニスト友金まゆみさんが再び杉劇に登場

2008年1月作成
友金まゆみ コンサート・ポスター
ポスター(クリックで拡大)
2008年2月9日(土)、ジャズ・ピアニスト友金(ともかね)まゆみさんのライブが杉田劇場コスモスで行われます。昨年に続き、2度目の杉田劇場登場です。

友金まゆみさんは、元々磯子区出身。同じ磯子区出身のミッキー吉野さん(ゴールデン・カップス、ゴダイゴ)とは、友金さんが幼少の頃から親交が深く、そのミッキーさんの紹介でボストンのバークリー音楽大学に進み、以後、18年間アメリカで活動。

演奏仲間として、アート・ブレイキーマッコイ・タイナージョー・ヘンダーソンダイアナ・クラールなどなど、そうそうたるジャズの巨人、ビッグネーム達の名前が挙がります。「ジャズの名曲解説本」を開けば、まず間違いなく名前が載っている人たちばかりです。

ところが、友金さん、日本ではほとんど活動をしていないため(でも、実はジャズ・シンガーakikoさんのCDに参加していたりします)、それほど名前が知られていない。実は凄い人が磯子区にいるのでした。

そんな友金さんのライブを地元で聞ける幸せ。本物のジャズをあなた自身の耳で確かめてください。

チケットは売り切れ間近なので、お早めに!

友金まゆみ公式サイト

それでは、ライブ直前の友金さんロング・インタビューをどうぞ! ライブの予習にもピッタリです。アート・ブレイキーやマッコイ・タイナーら、ジャズ・ジャイアンツの知られざるエピソードも満載です。

ジャズ・ピアニスト友金まゆみさんが再び杉劇に登場

友金まゆみさん
昨年の杉田劇場コスモスでのライブ
--- 杉田劇場のライブはどんな感じになりそうですか。
去年の杉田劇場でのライブ(写真)は私とドラムとベースのトリオだったんですけど、今回はサックスも加わってもらいます。ドラムとベースも前回とはメンバーが違います。
ベースとドラムが違うとだいぶ雰囲気変わりますから。一番大事なのは、ベースとドラムの噛み合わせなんですよ。それがうまくいけば、私はノリやすいと。

--- これまでもベース、ドラムのお二人と演奏されたことがあるんですか?
ええ、ベースの佐藤さんと私の共演、ドラムの紺野さんと私の共演はそれぞれあります。でも、3人一緒ではやったことがないんですよね。だから今回のメンバーが4人揃ってっていうのはぶっつけ本番に近い状態ですけど、ジャズの場合はね、それでできないと困るので。

--- サックスの尾崎さんは磯子まつりでも一緒に出演されましたね。
そうです、そうです。メンバーのプロフィールはここにも載ってますので、お渡ししますね。

--- 今回の4人の音が、どんな雰囲気になるか予想はできますか?
何とも言えないですね〜。どうかな〜(笑)。冒険ですよね(笑)。そこがまた楽しいんですけど。もちろん、腕は確かな方たちなので。
紺野さん(ドラムス)は若いですけど、日野皓正(ひの・てるまさ)さんなんかと一緒にやってるんじゃないかな。結構いろんな経験つんできてますね。
佐藤さん(ベース)もいろんなことしてるはずなんですよ。ただ謙虚だからプロフィールが控えめになってるんですね。普段もいつもだまーってる(笑)。すごく謙虚な人です。でもすっばらしいベースを弾く。

だから私はスィングすればいいんですよ。自己満足じゃダメじゃないですか、音楽はやっぱり人に聞かせるものだからお客様に楽しんで頂かないと。テクニックに走ってね、やたらとこうバラバラ弾く人とか。それだとメンバー同士、お互いの音を聞いてないじゃないですか。
だからお互いをよく聞いて、「いま何やったかな」とかね、「この人は何を求めてるんだろう」とかね、そういう勘がパッと働く人じゃないとやりにくいですよね。

磯子まつりでの尾崎一宏さん
サックスの尾崎一宏さん
--- キャッチボールができないとダメなんですね。
そうなんですよ! やっぱり耳が良くないとダメなんですよ。曲は知らなくてもいいんです、楽譜を渡せばいいので。だけど、そういう勘っていうのは、その人の持って生まれたものとか、経験とか関係してきますから。

--- 曲目はどんな感じで?
まだあんまり決めてないんですけどね、去年とはまたちょっと違う感じにしたいと思ってて。『Fly me to the moon』とか『枯葉』とか、あとボサ・ノバ系とかね、そういうのを入れようかなって考えてます。

--- 前回の杉田劇場でのコンサートはどんな感じでしたか?
すごく良かったですよ。ただ、客席が少し静か過ぎるかなっていう気はしました。野次飛ばされたり、ブーイングされるよりはいいんですけどね(笑)。ニューヨークでは「おまえ、その曲、昨日もやったじゃねぇか!」みたいな野次が飛んだりとかしましたからね(笑)。まぁ、そういうことで鍛えられるっていう部分もあるんですけど。

--- 日本では、ジャズはどちらかというとクラシックに近い捉え方をされてるような印象があります。演奏中は、咳とかしづらいような。
そうそうそうそう、シーンとしてね。でもやりにくいんですよ。「Yeah!」とかそういうのが無いとやりにくい(笑)。だから何かリアクションがあると嬉しいですね。失礼にあたると思ってる方がいらっしゃるかもしれないですけど、私のコンサートではリラックスして頂いて構いませんので。

--- 今回は、時間は決まってるんですか?
たぶん、45分くらいのセットを2回やると思います、間に休憩を挟んで。

--- 曲数は全部で十数曲くらいですか?
そうですね。ジャズ・クラブだと曲数を減らして1曲1曲を15分とか長めにやったりしますけど、今回は1曲を短めにして、演奏だけじゃなくて曲の解説とかトークも入れつつ。どなたでも楽しんで頂ける内容にしようと思っています。

--- ジャズにそんなに詳しくない方でも楽しめるような内容なんですね。
そうです、そうです。
★イベント・データ
イベント名 土曜の夜のジャズライブ with 友金まゆみ
Saturday Night JAZZ 2nd Session
日時 2008年2月9日(土) 午後6:00開演
場所 杉田劇場コスモス <らびすた新杉田4階>
※JR・シーサイドライン「新杉田駅」徒歩1分、京急「杉田駅」徒歩5分
料金 2,000円
出演 友金まゆみ(pf)、佐藤忍(B)、紺野智之(ds)、尾崎一宏(sax)
主催 杉田劇場
問合せ 杉田劇場(電話:045−771−1212)

アート・ブレイキーとよく連弾しました。腕前は・・・

--- ニューヨークで活動中は、ジャズ界の数々の巨人たちと交流があったそうですが、例えばドラマーのアート・ブレイキーとはどんなキッカケで知り合いになったんですか?
ブレイキーのバンド(ジャズ・メッセンジャーズ)にいたベーシストのエスィエット・・・ファースト・ネームがエスィエットで、ミドル・ネームがオッコンで、ファミリー・ネーム(苗字)もエスィエットっていうんですけど(笑)。私、その人とトリオとかカルテットでやってたので、彼がブレイキーを紹介してくれて。
※日本の雑誌等ではエシエット・オカン・エシエット、またはエシエット・エシエットと表記されることが多いようです。

私はね、メッセンジャーズには入ってなかったんですけど、ブレイキーとは単発で仕事をやらせてもらってたんです。よくいろんなところで一緒にやりましたよ、マンハッタンの。

ブレイキーの家にもよく行ってました。いろんな人が出入りしてましたね(笑)。ありとあらゆる人が。ブレイキーは何度も結婚してるんで、元・奥さんが20人くらいいるんですね。で、彼女たちが皆さん仲良くて。「今日は誰それがご飯作る番」みたいな感じで、かわるがわるブレイキーの家に来るんですよ。元奥さん同士で「明日、あなたお願いできる?」なんて会話してて(笑)。

--- お人柄なんでしょうか。
そう。もうブレイキーが70歳ぐらいのときでしたからね。もう皆さんがそうやってサポートしてるんだなって感じはしましたけどね。元気でしたよねー、あの歳で。ガール・フレンドもいたりね。

--- アート・ブレイキーはバンドのリーダーとして人材を発掘する才能があったって聞いたことがあります。
そうですよねー、そうそうそう。親分肌でね。ブレイキーの自宅にあった白いグランド・ピアノで、よく連弾しましたよ。「なんで連弾なんだろう」って思いながら(笑)。「お前が右手やれ」なんて言われて。

--- ピアノの腕前はあまり?
そうそうそうそう(笑)。♪ドミソ〜、♪ファラド〜ぐらいしか弾けなくて。♪ソシレ〜とかね(笑)。「いいんだよ、コード進行さえわかれば。あとはお前がボイシングを作れ」なんて言われました。
でもボロクソに言われましたよ、よく。「とにかくビートだけでいいんだ。いくら指が動いたってダメなんだよ」って。彼はドラマーだから、やっぱり。「ノリの悪い奴はぶっ殺してやる」なんて言ってました。

友金まゆみさんとジョン・ヘンダーソン--- ジョー・ヘンダーソンとも一緒に活動されていたそうですね。
(パーマネントなメンバーとして)グループに入ってお世話になったのはジョー・ヘンダーソン(写真)ですね。

--- 出会いはどんな感じだったんですか?
それが面白かったんですよ(笑)。私がね、マンハッタンのブロードウェイの大きなレストランで、エスィエットとデュオで演奏してたときにね、変な客がいたんですよ。私が演奏してるとこを間近から写真に撮る客が。変な帽子かぶってて。「やなオッサン」とか思ってたら、エスィエットがこっそり「あれ、ジョー・ヘンダーソンだよ」って。「うそだ〜!?」って言ったんだけど、本当にそうだったんですよ。で、いろんな話をしてたら、ジョーが「じゃあ、俺の書いたRecordameをやってみろ」って。それで弾いたら、彼も口が悪いから「お前のイントロはヘタクソだなぁ」って。そう言いながらもカリフォルニアに呼んでくださって。
ジョー・ヘンダーソンのお宅にはしばらく住んでました。あのぉ、住まわせて頂いてたというか(笑)。すごい大豪邸で。彼にはいろんなことを教わりましたね。

--- カリフォルニアにもジャズ・クラブが結構あったんですか?
そうですね、ニューヨークほどではないですけどね。ヨシっていう200人くらい入る、すっごい広いお寿司屋さんがあって、そこで演奏したりね。東京のブルーノートぐらいの大きさですよ。

--- 寿司屋でジャズの生演奏なんて面白いですね。
そうですよねぇ。向こうの人たちがちょうどお寿司とか好きになってね、ヘルシーなものを食べようなんて言ってた頃だから。日本でもやったら面白いかもしれないですね。

--- 当時は、どれくらいのペースで演奏してたんですか?
1日おきとか、それくらいかな。

--- じゃあ年間100回以上は演奏してたわけですね。
そうですねぇ・・・そうかぁ、そうですよね(笑)。

--- うどんを作ってくれたのは誰でしたっけ?
マッコイ・タイナーですね(笑)。ダシの作り方が上手で(笑)。

--- どうしてなんでしょう?
あ、彼はね、3人の息子さんの1人が日本人と結婚したんです。で、お孫さんがハーフになるから、マッコイ・タイナーは一生懸命日本語を勉強してましたね。お寿司とかも通(ツウ)ですよ。
そうですねぇ、よくあそこのお宅も通いました(笑)。いろんな食事を作ってくださいましたね。ジョー・ヘンダーソンもよく色んなものを作ってくれましたよ。
でも、音楽に関しては凄い練習量でしたね。夜中じゅう練習してる感じですよね。物凄いですよ。

--- もうすでにビッグ・ネームで、大ベテランだったのに?
そうなんですよね。凄かったです。

カー・ステレオをピアノの上に・・・

友金まゆみさん--- ニューヨークはどんなところですか?
今の季節は昼間でもマイナス5℃とかマイナス10℃とか。寒いですね。ライブの仕事があってもクラブまで着かないとかね(笑)。途中で吹雪で足止めされたりとか。結構ありますよ。「ベーシスト来てないよ」とか(笑)。そういうことはたくさんありますよね。ドラムとかベースとか楽器があるとクルマじゃないと行かれないじゃないですか。だからクルマになるんだけど。吹雪の中、ベースごとひっくり返ったとかね(笑)。

--- アドベンチャーですね。
うーん、ほんとほんと。マンハッタンの中のクラブでもね、除雪するんですけどね、歩道がもうアイスバーンになってるんですよ。だから演奏用のクツはカバンの中に入れてね、外では登山靴みたいの履いて移動してましたね。みんなそうでしたよ。

あとはまぁ、いつ後ろから襲われるかわからないので、走れるようなクツがいいって言われてますよ。ニューヨークのビジネスマンの写真なんか見ると、スーツ着てスニーカー履いてるでしょ。いつでも走れるように。

--- すごい街ですね。
すごいですよ。クルマの車上荒らしにも何回やられたことか。だから、カー・ステレオは取り外せるタイプのものにして、駐車場に停めるときは取り出して、クラブで演奏するときはピアノの上にステレオを置いといて(笑)。自分の目の届くところに置いておかないと。

--- 控え室とかに置いといちゃダメなんですか。
あーー、絶対ダメですね! とんでもない!(笑) ニューヨークはいろいろありますよ。でも今の方が安全じゃないですか? たぶん。私が行ってた頃よりずっといいんじゃないですか? いま日本がそんなじゃないですか。子どもが小学校に一人で通えないくらい危ないですからね。だんだん日本がね、20年前のニューヨークとかの感じですよね。貧富の差が激しくなるとそうなるんですよ。だんだん、だんだん日本も貧富の差が激しくなってきて。だから良くない傾向ですけど。怖いですよねぇ。

小学校は途中まで屏風浦小。白旗商店街の人たちも軒並み知り合いです。

友金まゆみさん--- いま、友金さんは磯子区にお住まいですが、生まれたのも磯子区ですか?
そうです、磯子区です。育ったのも磯子区です。

--- 学校も区内で?
小学校は最初、屏風浦小です。だから白旗商店街の人たち、軒並みみんな知り合いですよ。同級生とか小学校一緒だったとか(笑)。もうみんないいオッサンになってね。お店持ってね、みんなやってますけど。
私は途中で私立に編入したんです。洗足学園に付属の小学校です。中学、高校も。ドラマの『のだめカンタービレ』で舞台になった学校(笑)。
週に音楽の授業が17時間ぐらいありました。だから長いんですよ、1日が。終わるのが3時半とか4時とかね。普通の学校より授業が終わるのが遅いんですね。学校でレッスンしてもらったり。あとドイツ語の授業もあったり。

---え? ドイツ語? あ、楽譜とかで・・・
そうそうそう、使うのでね。声楽科の人はイタリア語とかね。科によってね、いろいろありましたよ。

---声楽科とかそういう専門は中学校のときからあったんですか ?
ありました。今は(洗足学園は)中学自体がなくなっちゃったんですけど、昔は音大付属っていう形の中学があって。たまたま私の母が洗足学園の教授と知り合いで、早めに編入したらどうかって誘って頂いて、それで小学校の途中から編入したんです。

で、中学生のときにミッキー(吉野さん)と会ったんですよ。ミッキーが日本に帰って来て間もない頃だと思いますけど。ミッキーがシンセサイザー講座みたいのを神田でやったんですよ。ローランドの。ミッキーとスティーブ(ゴダイゴのスティーブ・フォックス)とね。私は「シンセサイザーってどんなものかな?」って行ってみたんです。そのときに、初めてミッキーに会ったんです。その後、同じ磯子に住んでらっしゃるっていうのがわかって。「遊びに来てみる?」って言われて交流が始まったんですね。

--- アメリカに行くことになったキッカケは何かあったんですか?
小学校の頃からかな、小さい頃から外国行くって決めてたので。音楽はね、あっちこっち行って聞かないとダメだと思ってたので。

--- それで、高校を卒業してバークリー音楽大学に?
卒業する前からですね。高校は一応卒業はしましたけど、その前にもう夏休みとか夏期講習を受けに行ってたので。大学に入る前にどんな学校かチェックしにいくような感じですよね。で、ミッキーがすごくすすめてくれて(※ミッキー吉野さんもバークリー出身です)、いろいろ推薦状とか書いてくれて。だからミッキーさんにはすごくお世話になったんです。学校のことを教えてもらったり。

--- パークリーではピアノ科だったんですか?
ピアノ科にもいろいろあってね、私は演奏法と作曲だったんです。日本だと楽器ごとっていうのが多いと思うんですけど、バークリーはピアノ科の中でも編曲とかもあるし、いろいろ分かれてました。

--- ジャンルは分かれてないんですか?
そうですね。だから私もクラシックをやりました。音階から何からね、ハノンから全部。(そういう基礎的な部分は)洗足にいたときにやってたので役に立ちましたね。それ以前にも小さい頃から母に教わってましたので。何の音楽やるにも基礎の部分はすごく響きますよね。

--- お母様も演奏を昔から?
やってましたね。桜木町のホテルで弾いてたりとか。あちこちで。弾くのがメインじゃなかったと思いますけど。ウチの母は学校の先生もやってましたし、いろんなことをしてましたね。

--- バークリーの授業っていうのは厳しい感じですか?
厳しくはないですね。怒られるとか厳しいとかはないです。「やりたい奴はやれ」と。それが本当の厳しさなのかも知れないですけど。「やる気ない奴は(授業を)聞いてなくてもいいよ」と、そういう感じですよね。「でも単位落とせば留年だぞ」と。卒業しにくいんですよ。日本の大学と違って。卒業がなかなか難しいんですよね。単位を落としやすい。

お膳立てしてくれる人は誰もいない

友金まゆみさん--- バークリーに行くって決めたときから、その後もアメリカで活動するつもりだったんですか?
そうですね、うん。あの頃はもう突っ走ってましたからね(笑)。戻ってくる気は無かったですよね(笑)。

--- 卒業した時に、ジャズ・クラブでの働き口とかツテがあったわけでは?
あぁ、何も無いですよね(笑)。だから、学校の中にいる間にいろんな人と知り合いになるじゃないですか。演奏を聴きに行ったり、セッションしたりとか。そういうつながりはありました。でも(バークリーのある)ボストンは弾く場も少ないですし。腕を磨くんだったらやっぱりニューヨーク行かなきゃダメだって言われて。「食うや食わずになる覚悟があるならニューヨーク行け」って言われましたね。「ボストンじゃ生ぬるい」と。

--- では卒業して最初はどうしたんですか?
ちょこっと日本に帰りましたけど、何ヶ月か。で、いきなりニューヨークに行きましたね(笑)。マンハッタン内だけではなく、あの辺(の演奏場所)を全部制覇する感じで。ニュージャージーとか。クルマで2時間ぐらいは何ともないような。あっちこっち行って、ホテルなり、レストランなり、クラブなり、ジャズやってるとこは全部、ピアノ・ソロであろうが何であろうが、それこそ吹雪であろうが(笑)何であろうが。家から2時間ぐらいじゃ遠いとか言いませんからね。

--- それは演奏先で知り合った人の紹介でまた別の店を紹介してもらったり?
それもひとつの方法なんですが、あとは自分でデモテープを作って、「お願いします」って頭を下げて。自分で自分を売り込みに行く。やっぱり宣伝をしないとね。

ただ渡してきてそれっきりじゃダメだから、また翌日行くとか。毎日のようにあちこち通いましたね、最初は。食べていけないからって他のアルバイトをやってるミュージシャンもいましたけどね、でもそれしちゃうと結局練習ができないですから。だから本当に食うや食わずでしたよ。私、ガリガリでしたもん。1日ヨーグルト1個とか(笑)。すごいですよ。フラフラする(笑)。お金なかったですね。

向こうからどうぞとお膳立てしてくれる人は誰もいないということですよね。しょっちゅう新しいデモテープを作ってましたよ。ピアノ・ソロだけじゃなくて、知り合いとセッションして録音したりね。その知り合いたちも仕事欲しいわけですから。お互いにね。
「お願いします、お願いします、ちょっとでもいいから出してください」って言って。「一度聞いてもらえればわかります」ってそんな感じでアピールしてね。最初はタダ働きみたいなもんですよね、うーん。食うや食わずでした、しばらく。

--- 最初の頃のギャラは一晩どれくらいだったんですか?
5,000円以下なんていうのはしょっちゅうありましたよ。あと(観客からもらう)チップだけとかね(笑)。そんなことが珍しくないんですよ。あの頃、ハンク・ジョーンズとかだって変なクラブでやってましたからね。けっこうトップクラスの人たちでも一晩100ドルでやってるときでしたから。贅沢は言ってられないって感じで。
まぁ、弾くたびに練習じゃないですか、やっぱり。

--- そんな状況でも「もう音楽辞めよう」とは思わなかったですか?
逆に「なんとかしなきゃ」っていう感じになりましたね。「音楽をやる!」って啖呵(たんか)切って日本を出ちゃったわけだから。戻れない(笑)。戻るのも悔しいしっていう感じでしたね。ただでは戻れないって思いました。
ただ、(似たような境遇の)仲間がたくさんいたのでね、ミュージシャン仲間に支えられてっていう感じでしたね。

--- 今日は長時間ありがとうございました。杉田劇場でのライブ、楽しみにしています。
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